懐かしの蒸気特急“つばめ”東京駅8番線ホーム、昭和6年頃
古い機関車 1951年11月
戦後、数年を経て、鉄道好きの友の結婚祝いにと思ってテーマを探して東京の機関区をめぐった、その中の1枚、飯田町にあった機関区の所見である。当時貨物駅のあった構内の入換用のB6で、機関車は小さいようでも建屋の中に入ると以外に大きい、赤く染まった夕陽のガラス越しに浮かび上がったB6はなんとなく古い仁王像のような雰囲気をかもしていた。
梅小路のC53 1959年10月
昭和25/1950年の3月、京都‐膳所間の補機を務めていた、最後に残っていたC53が、いよいよ月末に火を落とすということで、もう一度生きているC53に会いたくて、梅小路機関区を訪れた。いろんな角度から写真を撮らせてもらって、所定の所に収まるべくターンテーブルに乗ってゆっくりと回り始めた。移り変わるアングルを楽しむうち、一瞬すすけたボイラにギラリと光が走った。予期しなかっただけカメラは言うことをきかない。
(故 魚田 真一郎 様 蔵)
山科のC53 1991年1月
私はC53が東海道に君臨した時代は、幼い思い出の中で夜行列車の夢うつつで独特の独特のドラフトの音を聴いただけで、最盛期の姿をしみじみとは見ていない。それだけに53への憧れは強く、多くの先輩たちが撮った写真を夢中になって集めた。中でも京都発の上りが東山トンネルを出て、山科の大築堤を上る姿は、後年のC62にダブらせて、その力行ぶりを偲ぶのだった。
(林 嶢 様 蔵)
京都駐泊所 のC53 1976年
京都に市電が走っていた頃、伏見線が駅の構内を高倉の跨線橋で渡り切った東側に、梅小路機関区の京都駐泊所があった。ここには東海道の東から西からやって来た機関車が、ターンテーブルに乗り転向して帰りの仕業まで小休止をするのが見られた。この機関車の溜りが見える橋の上には汽車を見る子供や大人がいつも数人たむろしていたし、許しを得ずに自由に写真を撮れる場所でもあった。今はこのあたりも新幹線京都駅の一隅になってしまった。
(三品 勝暉 様 蔵)
下関機関区 1966年10月
山陽線の西部が蒸気牽引だった頃、下関機関区は本州最西端の機関区として、その規模と設備を誇っていた。門司発の上り列車に乗り、関門トンネルをくぐり関彦橋を渡ると、左窓高架下に展開する機関区の情景は、蒸気ファンならば胸をわくわくさせられる一瞬である。C62・C59などブルートレインや急行を牽いた花形たちが一堂にに集まるのが壮観だった。
(日高 冬比古 様 蔵)
鉄道工場の朝 1977年2月
煉瓦造りの採光窓のある二段屋根の機関車工場組立職場の建屋に斜めに差し込む朝の光、今日の出場に火を入れた機関車の煙は、劇的な光の縞を描き出す。出場間際でせわしく働く技工、修繕の解体を待つ機関車など、これは蒸気機関車だけが、演出できるドラマである。
(東武博物館 様 蔵)
下町の機関庫 1978年9月
昭和の6・7年のころ、東京の隅田川を渡った一画、業平橋に東武鉄道の浅草機関区があった。旅客は全て電車化していた東武だが、まだ貨物列車は全て蒸気機関車に委ねられていたのであった。機関庫に出入りするボールドウインやピーコック製の機関車、それは美しく油拭きされて手入れの行き届いた姿、彼等の醸す雰囲気はあたかも明治時代の機関庫を再現したように見えるのだった。
炭山の機関区 1957年5月
釧路から1時間余り、炭砿鉄道としては比較的距離の長い雄別炭砿鉄道に、昔東海道で活躍した8700形が居るときいてはるばる訪ねたのであった。炭山の終着駅は石炭積み込みの大掛かりな設備があったが、その奥の山懐ろのような所にささやかな機関区があった。機関車は撮影のために広い駅構内に出ていたが、残っていたのは美唄鉄道から回って来た機関車で9046のプレートを付けていた。
(広田 尚敬 様 蔵)
美唄の機関区 1965年5月
動輪は5軸のタンク機関車を7輌も擁していた三菱鉱業美唄鉄道は、われわれ機関車ファンにとっては有難い存在であった。機関区は函館本線の美唄駅に接して便利であった。その5軸の機関車は自社系列の三菱造船製が3輌と、こくてつから譲り受けた4110形4輌の計7輌を保有し、朝の機関区はEタンクと96が肩を並べて出勤を待つ情景は、機関車ファンにとっては忘れられない。